【狭山之栞(電子版)】狭山の栞 狭山之栞 電子版

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名勝狭山

狭山は多摩入間に跨る丘陵地にして、山形恰も六指の掌を伏せたる如し。山の廣さ東西三里余南北一里余にして高さは麓の平坦の地より高きところ凡二十丈低きところ凡十丈許なり。南陽なる裾野の居村を村山郷と北陰を宮寺郷と呼ぶ。山中に二渓あり、北谷を山口郷南谷を宅部郷と称す。狭山が池は狭山村字小澤にあり。函が池は箱根ヶ崎村に在り。

東京城を距る事凡八里半余。東端は入間郡久米村字嶽の鼻より西は同郡富士山村に至り、南麓は多摩郡野口村内なる西宿に起り西は同郡箱根ヶ崎村に終る。山の入口を山口と唱へ山中を巡りて野へ出づる地を野口と云ふ。古くより銘茶を出す。日本五場の一たる武州川越の野とは當地をもふくみ云ふ、式内入間郡五座の内物部天神社は北野村に鎭座す。境内に日本武尊桜あり。傍の碑文は享和二年所澤の住人倉片孝順之を建つ。高さ二尺六寸五分幅一尺五分。神官栗原氏の邸にある金桂(もくせい)は廻り六尺五寸にして右大將頼朝公の判物同家に存す。

誓詞が橋は同村小手指原に存す。宮寺村の鎭守出雲伊波比神社の境内に在る茶場の碑の一つは故式部少輔林あきら(緯)の撰文にして菱湖巻大任の書、高さ六尺幅三尺余天保三年の建立なり。一つは明治九年五月の建立にして古碑と相並ぶ。東京中村正直の撰文にて秋巖荻原(き)(羽 軍)の書を廣瀬群つる(雨 金 鳥)◎鑑字す。中村正直氏は狭山の故實を究めずして漠然と撰文せるため、文中に狭山は武藏國入間郡に在りとのみせるは聊か本意なし。

中氷川神祉は氷川村に、鳩峰八幡は久米村鳩峰に何れも鑓座す。八幡社の地内に新田義貞兜掛の松あり。周園一丈五尺余。將軍塚は同じく久米村八國山の嶽の鼻にありてその北方に勢揃橋あり。閻浮檀金の三尊の彌陀如來は長久寺に安置せらる。聖徳太子御建立四十八体の内なりと云ひ伝へ俗に善光寺如來と称す。応永二十九年の梵鐘は永源寺に存し日本三板元なる宏智録は同寺の什宝たり。千体地蔵は野口村正福寺に、百観音は中藤村眞福寺に安置せらる。なお、真福寺には寛永の梵鐘あり。七観音は大鐘村六齊堂に安置せらる。

芋久保村豊鹿島の槻は廻り二丈三尺、藏敷村御嶽神社の樅は廻り一丈七尺余、高木村尉殿神社の公孫樹は廻り一丈余、宅部郷三島神社の相生榎は各廻り一丈二尺其間二間にして双生す。同村諏訪神社の栂の木廻り一丈余、上宅部郷森田氏の牡丹は廻り六寸五分あり三幹並び生ひ高さ四尺花数四十二輪をもち、花の大さ径八寸五分といふ奇木なり。狭山村神明社の楢の木廻り九尺三寸、土屋新田中村氏の槐は廻り四尺、同所吉川氏の胡桃は廻り三尺八寸、藏敷村地藏堂の彼岸櫻は廻り八尺余、中藤村八坂神社の立皮櫻は廻り六尺二寸にして花の色無類なり。同所の屋敷山に六ツ指の地藏庵あり。式内阿豆佐美天神社は殿ヶ谷村にあり神木の樫廻り一丈余。赤堀山王の杉は廻り一丈四尺、宮寺郷再久保圓通庵の榧(かや)は廻一丈余、大彌堂の杉は廻り一丈六尺、勝樂寺七社の椎の木廻り八尺にして石段九十二段あり。五郎太松は同村大上(かさ)にあり廻り一丈一尺五寸。

延久の古鐘は大坊に、寛徳の古碑は岩崎瑞岩寺に、建長の碑は堀之内村來迎寺に、飽間齋藤兄弟戦死の碑は野口村西宿永春庵に何れも尚存す。廻り田村光明院の枝垂れ櫻は廻り七尺余、宅部西樂庵のたら木廻り六尺五寸、狭山村圓乗院の萬両は高さ一丈余、山櫻の古木は士屋新田長久寺にあり、廻り一丈余。其他鶴亀二年高麗國王辰爾の持参せる大鐘は山口観音の什宝としてあり。三ツ木村十二社の栂の木の廻り一丈余なる、奈良橋村押本氏の枳◎棋(けんぽなし木 具)、清水村大久保氏の梨の木等實に枚挙にいとまあらぬ程なればここには主なるものを羅列し巻を逐うて詳にすべし。

狭山の景物

蔦葛、桔梗、雪、螢、紅葉、躑躅、蓴菜

同動物
雉子、山鳥、兎、蝮蛇、水蛭、蟇、蛙、田螺、鰌(どじょう)、鯰、鰻、桑◎(虫 票 ひょう) 蛸、山鳩
同産物
松露、初茸、〆治茸、菌類、茯苓(ふく)、茶、生糸、繭、絣いと◎綬、二子縞、火鉢、火消壷、 押掛、草鞋、縄索、柿、李、梅、足袋、下駄、手桶、炭、薪、五月幟、羽子板、破魔弓、辮慶縞、 箴(しん とん)、紬、瓦

武藏國

武蔵相模は上古一国にして神代牟佐なるを上下に分ち牟佐上牟佐下と云ひしを、上を『佐上』(さがみ)下を『牟佐下』(むさし)と云ふ。国造本紀に曰く、牟佐志国造、志賀高穴穂朝御代出雲臣祖名、二井之宇迦諸忍神狭命十世孫兄多毛比命定賜云々、叉人皇十二代景行天皇之御宇御子日本武奪東征西帰の砌常國に御具足を埋め玉ふ。其御具足御嶽山神宝となり徳川家光公上覽の上葵絞附具足櫃寄附ありて今尚存せり。是『武蔵』国号の始めと伝ふ。

萬葉集巻十四に『古非思家波素氏毛布良武乎牟射志野乃宇家良我波奈乃伊呂爾豆奈由米』には牟射志とみえ、古事記の无邪志と同じく濁りよみとなり居れど、和名抄には「牟佐之」と澄音をもて読めり。また国造本紀に『胸刺』などとあるは如何。

名にしあふ武藏野はこの武蔵國の中に介在する広き原野を申すは愚老が云はずとも明かなるも野の名あまりにも著しき故に、恰も武蔵野の中に武藏國なるが如き思を抱かしめらるるも可笑しきまことと云ふべし。武蔵野は國の十郡にわたり西は秩父より東は江戸の海に延び南は橘樹郡の丘凌より都筑の岡にまで及びげにはてしなき観あり。狭山とはこの原野の真なかに在る嶺をぞ呼ぶなる。
多摩郡は往古麻を多く植ゑし故多麻郡と號すと。多麻川の南を多西郡、北を多東郡と呼ぶ。天正十
九年辛卯十一月徳川家康公の朱印に多東郡とあり、元和度より寛文九年己酉三月の頃迄多麻郡とあ
り、後に多摩郡と云ふ。手の字を加へしは麻を製する事精しくなりし故なりと。徳川家朱印には多磨
郡とあり、能く麻を製し布に織り川にて晒したる故調布(てづくり)の玉川などと云也。始めは多麻川と云ふ、
新編武蔵風土記に曰く
『多磨の名は安閑記に多氷屯倉と在此多氷は多磨郡の事なるべしと云説あれど得たりとも思はれ
す正しく古書にあらはるるは和名類聚抄に多磨を訓して太婆と註す玉川の水源は甲州都留郡丹婆
山村より出で郡中に入る故川の名も丹婆川と唱へし故起ると云へども本説定かならす後世すべて
タマと唱へり』云々、叉『多磨入間の界に悲田所を置れしこと日本後記天長十年の條に載す是郡
名の古書にあらはれたるものなるべし』と。
玉川の辺に麻生村あり。野口村に苧が橋と呼ぶあり。また芋久保村に麻流し苧畑と云ふ小地名残れ
り。
入間那は中古入間川の北を入西郡とし南を天正十九年十一月の朱印に入東郡とあり、また応永廿九
年壬寅九月入東郡とあり。貞享三年十月八日川辺村浄居寺の奮地なる石佛の正観音に入東郡山口領
とあり、文禄三年八月五日南畑村の十玉院に傳はる古証文に入東郡山口郷三ケ嶋郷とあり。元和三
年高麗郡日東とありもまた慶安元年八月多麻郡、延賓六年に高麗郡とあり。入間郡と定められしは
元禄享保之頃よりなり。姓氏録に曰く、入間の宿禰は天穂日命の後なりと、又続日本紀に神護慶雲
二年武蔵国入間郡の人物部値広成等六人賜姓入間宿禰とあり、其姓今入間郡の何処にある乎。古歌
に伊利麻治とめるは入間路の義ならむ。和名類聚抄には伊留末と訓す。
領名山口之起源
山口領名の起源を尋るに詳ならす。梅松論に元弘三年酉五月十四日北條高時の弟左近特監入道恵性
を大特として山口に陣を取ると見えたり。正保御改定の国絵図には山口久米村とあり又山口村あり
て町谷村なし。寛文十二壬子年造立高根村字茅戸の石佛藥師の銘に武州入間之郡山口郷坊村願主春
陽代と記しあり。岩崎村瑞岩寺に存する本願信阿大禅門の位牌には貞治六年丁未九月十八日と記す、
これは山口平内左衛門尉の法名なりと。又故参州大守満叟實公大禅門の位牌は山口大膳の法名にし
て永徳三年癸亥六月十三日と記す。中氷川神社宝物之内掛物一軸在り其銘に元亀三年壬申十月廿五
月成就願主山口卒四郎資信、細工の本主は防州山口の住富雪齊唯種と記しあり。永禄二年未二月
十二日改正の北條分限帳に山口平六とあり、大鐘、北野、藤澤、千二百十二貫八百四十二文之領知
と見ゆ。村山党之内山口六郎家俊同小七郎家高とあり。また村山七郎家継の子、山口太郎季信同四
郎義継の子四六郎高義同七左衛門實慶等大勢あり。源平盛衰記二十二巻に治承四年八月廿九日衣笠
山寵城寄手之内村山党山口党などとあり。鎌倉大草紙に嘉吉元年四月十七日上杉兵庫頭方へ打取首
實検着到の内山口次郎、四郎あり、皆此地に居住せし人々なるべし。山口郷に住せし故山口を以て
姓民としたるものなるべく、山口氏住居せし故山口郷といふにはあらざるべし。武蔵国郡村誌に山
口領と号する村数多摩郡に五十四村入間村に四十九村(風土記には四十一村)あり、何れをさして山口と
いふべきや実地詳ならす。按ずるに方今の山口村之内なる旧町谷村なるべし。当地は南北に狭山の
連峯を帯びて字大塚(世俗割塚)といへる処に大小塚六個あり。此処にて南方を望めば玉川辺まで眺め
得、塚の高さ六尺余あり、今淺間の社を祭る。北の峯は打越堀之内村に蓮り大塚二ヶ所あり、北方
は小手指原を望む。前記梅松論の所謂山口なる地は此処ならむ。正保改定の絵図面に山口久米村と
あるは江戸より來りて狭山への入口なればなり。
郷名に就て
宮寺郷、生名は天正十九年辛卯十一月奇木明岬の朱印に見えたり。村山郷は武蔵野話に見ゆる如く
古絵図面に岸、殿ヶ谷、石畑の三ケ村なりと。山口郷は天正十九年十一月徳川家康公の御朱印にあ
り文禄三年八月南畑村十玉院に伝はる古証文に入東郡山口郷三ヶ嶋郷とあり。久米郷は天正十九年
の御朱印にしかあり。新堀郷も金乗院の御朱印に見ゆ。北野郷は天正十九年十一月徳川家の御朱印
にあり。奈良橋郷は芋窪村蔵敷村奈良橋村高木村に関係す。正保四年丁亥三月芋久保村鹿島神社の
神前石燈籠の銘に上奈良橋の郷井の窪庄と記しあり、宅部郷は人皇二十八代宣化天皇の御宇藏を国
々に建て糧を積み民を救はしむ是其屯倉ありし地なるに依る。屯倉部と云ひしを何時の頃よりか宅
部の字を用ひ來り狭山村の内宅部村後ケ谷村清水村廻り田村野口村に渉るなり。尚山口郷に就ては
治承四年八月二十九日衣笠山の合戦寄手の内山口党あり(源半盛衰記)嘉吉元年四月十七日上杉兵庫頭
方へ討取首実検到着之内(鎌倉大草紙)工藤某の首山口次郎四郎後藤弾正相討ともあり(前記領名と共に併せ考ふべし)寛文
十二年壬子年造立の石薬師に(高根村字萱戸に在り)山口郷と記せり。
狭山の川め

柳瀬川
この川の水源は多摩郡石畑村入間郡高根村の渓より発し縄嶽(矢寺村)勝樂寺村を経て堀口村に至り一
つは多摩郡横田村押越谷に源し勝樂寺村を経て堀口村に到り二渠合流して柳瀬川となる。故に此地
を堀口村といふ。夫より山口郷の村々を経て久米村に入り宅部川合流して二瀬川と云ひ更に東流し
秋津和田本郷村を経て志木川へ合し後荒川へ落ち東京湾に入る。
宅部川
この川は多摩郡芋久保村地内石川村字槌ヶ窪に発す。故に此地を石川と云ふ。藏敷奈良橋両村之地
内新ヶ谷戸、内堀、上宅部、下宅部、野口村の内西宿を経て久米村に入り柳瀬川に合す。
狭山川
狭山村(元後ケ谷村)の二ツ池より発し清水村、廻り旧村、野口村字茶ヶ谷戸を経て西宿に到り宅部川
に合流す。
砂の川
この川は中藤村地内山王山の麓に発す。故に此地を赤堀と云ふ。萩尾、原山、神明ヶ谷戸等の村々
の地先を東流し高木村に到り奈良橋川と合し夫より狭山村、清水村、廻り田村、野口村を経て久米
川村に到り◎遅(からほり)と云ふ。此川水源ありて末に水なし。故に里俗カラホリと呼ぶ。野塩村を経て柳瀬川に合流す。

北砂川
此川の水源は三ヶ嶋村別所谷に発す。故に此の地を堀之内村と云ふ。板橋、北野村誓詞ヶ橋を経て
小手指原を東流し上新井村の後を経て神米金村(かめかねむら)に到り畑の畔に流れ入り水源ありて末流なし。故に末
無川とも云ふ。
北野川
水源は三ヶ嶋村字南入と云ふ処に発し北野付赤羽根を経て上新井村河原宿、所澤村、下新井村、牛
沼、坂の下村を経て柳瀬川に合流す。
宮寺川
西久保村の谷より発し、寄木明神の東を流れ一源は高根村の谷に発し坊村を経て中野村の石橋にて二
渠合流し矢寺村、林村、藤澤村、上新田、水野村に到り堀兼村の地境に終る。
年不取川
此川の水源は高根村に発し土屋新田、大森を一準、林付の後を東流し藤澤村を越え北入曾南入曾の間
を流れ堀兼村の、中央を越えて今福村に到り末は新河岸の川へ合す。川上に水ありて水の流るる事な
し。故に世俗年取らず川と呼べり。
村山川
此の川は箱根ヶ崎村の函が池に源し石畑村を経て野を巽へ流れ砂川村に到り玉川上水へ合し助水と
なる。
伊豆殿掘(一名新掘)
明暦年中玉川上水穿割の砌松卒伊豆守御用掛にて掘割成就の功に依て分水を引く。故に伊豆殿堀と
云ふ。芋久保村地より掘込み野を東流し野火止村を経て宗岡村に至り(志木川の上を寛にて渡る)松平伊豆
守同右京亮領有の田用水となる。
狭山の古歌
冬深み箱の池辺を朝行けば氷の鏡見ぬ人ぞなき(夫木集、智経)
あやめ草狭山が池の永き根をこれもみくりの慣ひにぞ引く(歌枕、兼昌)
みくりくる狭山が池の便りにしかげはひかれぬ青柳の糸(同 隆祐朝臣)
春深み狭山の池のねぬなはの苦しげもなく一啼く蛙かな(同 仲実)
五月闇さやまが峯にともす火は雲の絶え間の星かとぞ見る(干載集、修瑚太夫顕季)
秋風になびく狭山の葛かづらくるしや心うらみかねつつ(続古今集、御鳥羽院)
ともしする狭山が峯の狩衣秋にもまさる袖のつゆけさ(新続古今集、家隆)
妻恋ふる鹿のたちとを尋ぬれば狭山が裾に萩風ぞ吹く(新古今集、匡房)
寂しさに野辺にたちいでて眺むれば狭山が裾に鈴虫のなく(夫木集、同人)
ふみ分けし狭山は雪にうづもれて池のみくりはくる人もなし(六帖歌 千五百番・秀能卿)
ともすればなびくさやまの葛かつら恨みよとのみ萩風ぞ吹く(新後拾遣集、匡房)
狭山なる池のみくりは根もみねどうちはへひとのくるぞまたるる(六帖歌、光俊)
氷りゐし汀の枯野ふみ分て行は狭山が池のあさ風(堯恵)
右の外尚あれど略す。
狭山八景
p25

多摩郡山口領宅部郷狭山村

  当地は古時高三百三拾六石の邑なりき。東照神君御入國後元和度(1615~1623)江戸十里四方小身なる旗本の知行渡りとなりしが慶長二丁酉年(1597)三月中に逸見四郎左衛門、溝口佐左衛門両人にて各百六拾五石宛を拝領す。

  其後逸見氏は故ありて延宝二年(1774)甲寅十二月上知に付代官中川八郎左衛門、近山五左衛門の支配となり以来御料と称す。溝口氏は同苗政五郎迄知行し元文二酉年(1737)七月上知す。此時郷名を以つて宅部村と改称別村となる。

  旧後ヶ谷村は後に大なる谷ありて狭山が池ある故初め後垣外村(うしろがいとむら)といひ其後に後ヶ谷戸村といふ。後の谷への入口なる故にしか名付たるなり。延宝五年丁巳三月後ヶ谷村と定めしが明治八年六月四日に後ケ谷村及び同村新田、宅部村を合併して狭山村と改称す。

高 三百六拾八石九斗二升四合
           戸数九十一軒
内 百六拾二石三斗四升二合 旧後ヶ谷村
           戸数四十九軒
  四拾一石五斗八升二合
           同持添新田
           民家無

  百六拾五石
           旧宅部村
           戸数四十二軒

後ケ谷村管轄の沿革

  足利時代は不詳、伝云木曽義仲之孫讃岐守之二男大石遠江守信重信州佐久郡大石郷に住し大石石見守憲重延文元申年二宮城に移る。

  大石源左衛門尉憲儀至徳元子年安下城に移る。鎌倉郡山之内上杉憲政之四老の内なり。大石源左衛門尉房重及び同信濃守顯重は長緑二寅年高月城に移る。同源左衛門定重は永正十八巳年瀧山城に移り後入道して心月と号す。天文七戌年戸倉城に移る。

  北條氏照永緑五戌年瀧山城より持護寺の城に移る。大石源左衛門尉は関東管領上杉民部大輔憲政公の四老の内にして武藏國三萬石を領す。然るに北條相模守氏康の男左京大夫氏政の舎弟陸奥守氏照六萬石を持参して瀧山城へ養子に来り合せて九萬石の領主たり。是を山根九萬石と云ふ。

  然るに天正十八寅年七月十一日小田原城内に於て兄氏政と共に氏照も切腹す。法名少林寺殿通岳通勝大居士と号す。氏政の法名慈雲院殿前左京兆勝岸傑公大居士。因に入間郡安松村青□山氏照院の本尊藥師如来は氏照の守本尊なりと云ふ。位牌は青□院殿透兵関公大居士。慈雲院殿勝巌傑公大居士天正十八年庚寅七月六日と記しあり。是に依て天正十八年より徳川家康公の領分となり慶長以後は前記逸見溝口兄弟の知行所となれり。
p27
尚当地を支配せる代官其他左の如し。

延宝二年より元緑元年迄 今井 九右衛門
元緑元年より同三年迄  西山 六郎兵衛
元緑三年より同四年迄  細井 九左衛門
元緑四年より宝永三年迄 今井 九右衛門
宝永三年より正徳元年迄 林 甚五右衛門、林 兵右衛門立合
正徳元年より同五年迄  比企 長左衛門
正徳五年より享保元年迄 会田 伊右衛門
享保元年より同五年迄  石川 傳兵衛
享保五年より同七年迄  朝比奈権左衛門
享保七年より同十八年迄 岩手 藤左衛門
享保十八年より寛保二年迄 上坂 安左衛門
寛保二年より同三年迄  大谷 杢之介
寛保三年より延享元年迄 川崎 平右衛門
延享元年より明和七年迄 伊奈 半左衛門(同人明和三年勘定奉行に昇進備前守となる)
明和七年より安永六年迄 久保田 重左衛門
安永六年より天明三年迄 飯塚 伊兵衛、藤澤 藤十郎立合
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天明四年より寛政二年迄  飯塚 常之丞
寛政二年より享和元年迄  野田 文藏
享和元年度        榊原 小兵衛、野口 辰之助立合
享和元年より文化五年迄  早川 八郎左衛門
文化五年より同六年迄   淺岡 彦四郎、榊原 小兵衛立合
文化六年より文化七年迄  篠山 重兵衛(同人は日光作事奉行となる)
文化七年度        榊原 小兵衛、野田 源五郎預り
文化七年より同十年迄   川崎 平右衛門
文化十年より同十一年迄  川崎 長三郎
文化十一年より文政四年迄 大岡 源右衛門
文政四年より天保元年迄  平岩 右膳
天保元年より同三年迄   田口 五郎左衛門(同人勘定奉行に昇進加賀守となる)
天保三年より同十二年迄  山本 大膳
天保十二年より安政五年迄 江川 太郎左衛門英龍
安政五年より同六年迄   細川 越中守預り
安政六年より慶応三年迄  江川 大郎左衛門英武

  明治二年六月府藩縣を置き江川韮山縣となり英武氏知事として三年間管轄す。明治四年十二月廿日
p29
神奈川縣と改まり陸奥宗光縣令となり、以後大江卓、中島信行、野村靖の諸氏を経たり。

 神明神社(清水堺に在り)は伊弉諾命を祭り祭典は毎年八月廿一日、旧反別三畝八歩の除地ありしが現在三畝拾四歩は官有地たり。從来村里の鎭守にして旧別当は円乗院なり。神慮嚴かなる故遙拝所を建て天宮大明神と号す。当神明神社を内宮と称し、外宮は二丁程東清水村に在り。

 当社の神木柊は廻り一丈二尺余ありしが、立ち枯れとなり啄木鳥などの巣喰ひ居りしが、文政度大風の爲枝葉も折れ終に朽ち倒れ失ひり。外に欅の大木廻り一丈四尺程のものあり、神木と呼ばれたりしが、文化年間別当円乗院本堂建替の砌、此欅一本にて五寸角の柱三十六本取り得ればとて寺檀の協議調ひ、既に現住宥詳法印一心に読経し神慮を慰め且つ吉凶二本の籤を神前に供へ無心無垢の小児をして引かしめしに、凶と出でたるに遂に伐木を中止せり。

 然るに嘉永年間、異國船渡来に付、蒸汽舶新調のため岐木(またき)必要の急を告げ時の御用商人南八丁堀の栖原屋角兵衛来りて伐材の示談に及びしも從前の次第を告げ応ぜず、且つ縣令江川太郎左衛門役所へ申出伐材赦免の御沙汰を願ひし処幕府の用材なれば是非なき故相当の代償を以つて売り渡すべき指令ありしに依り代金廿五両にて角兵衛の手代粂川村升五郎是を伐り採り用材とす。

 村内関田忠右衛門は根の切屑を貰ひ焚物に用ひし処隠宅焼失す。其後盗賊質藏を切り破り財物を奪ひ且つ火を掛けたり。久米川付升五郎は大熱病を煩ひしが神罰なるを悟り日参して神慮を慰ると云へ共、終に妻を失ふに至る。當時の村用掛眞野彦四郎外役人一同はじめ氏子一同も大に驚
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き右売却金廿五両を以つて廿五座の神樂を奏して、神に詫びしが、かなはず疫病流行し村内交々と煩ひ五ケ年目に漸く退散す。あまりの不思議の恐しさに、境内の落葉下草枯枝など堆かくなるも更にとる人なし。まして、他の大木は立ち枯れのまま残れど手を着くる者なし。現存するは楢の大木廻り九尺三寸なり。

 前野稲荷は字前野に在り。神木の大杉廻り一丈三尺余ありしが自然立枯れ遂には赤味ばかり数十年残り居り、田無柳澤辺よも望み得る程の高さなりしが弘化三丙午年(1846)二月二日の大風にてたおれその跡を失ふ。俗に枯杉稻荷と呼び伝ふ。境内に紅葉の大木あり、廻り八尺余なりしが維新の際伐りて神官の復飾料に供す。

 愛宕神社は狭山南峯の出崎にあり。神体は將軍地藏也。下田七畝廿歩の除地を賜はり圓乗院が別当なりしが維新の際弟子秀鏡復飾して後藤兵庫と改称神官となる。祭典六月廿四日。

 天宮神社は字上の屋敷に在り。元鎭守神明あまりに霊験嚴かなりしに、遙拝所を建立せしを終に鎮守とし天保八年八月祭日を八月一日と改め初めて幟一門を納めしが、其時誤りて天狗大明神と染めしにより現今も然か呼べど誤なり。

山神の社は野中にあり。祭神野茅屋姫命也。祭典二月十七日。寛文九年(1669)三月、下畑五反壱畝六歩の除地なりしが、現今三畝拾四歩官有地となる。
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愛宕山圓乗院医王寺東圓坊は豊島郡上神石井村新義真言宗中本寺亀頂山三寶寺の末派にて開基草創不詳。開山法印賢誉を以つて開租とす。平治元年己卯年(1159)二月八日入寂す。

本尊薬師如來の本体五寸余、厨子高二尺余。座像にて寶月智嚴音自在如來にて恵心僧都の作。外に日光佛月光佛十二將神を安置す。

寺を医王と呼び坊を東圓と號するは皆藥師に因緑あるに依るにや。古時、延壽院と云へる寺、字上の屋敷に在りしが慶長十二丁未年(1607)八月十八日風禍により坊舎悉く吹き潰されしを愛宕山へ移し山を愛宕と呼ぶに至る。

開山賢誉より現住木村淳賢迄四十世僧を経たり。廿世慶範法印の時その帰依に因つて南紀根來山錐鎖不動を模し本尊とす。空殿高五尺余尊躯長二尺五寸両童子各一尺五寸也。

同法印の代 寺地壱反五畝歩の除地を賜りしが 現今寺敷地弐反八畝廿三歩官有地たり。廿四世宥賢の代、享保十一丙午年(1726)五月廿四日法流開基香衣一色着用の寺格とりる。三二世法印宥祥の代即ち寛政五癸丑年(1793)二月本堂並庫裡再建す。入佛供養は文化六巳年(1809)十月十五日より十七日迄法如上人を講じ士砂加持大施餓鬼を修行す。(此法如上人は後、澁谷室泉寺にて寂し同寺に墓あり)當寺は新四國四拾武番の霊場、伊豫國佛木寺のうつし也。現在狭山薬師第三十四番たり。

詠歌 ありがたや医王の寺ときくからはよろつの病いゆるなるらむ  林志

 庭中に萬両の大木あり。高さ本堂の屋根に及びしが枯れたり。実生あり、高七尺尚存す。寺寶に兆殿司の薬師像あれど破れたるは惜し。梵鐘無名、寛延二年(1749)の建立、高さ龍頭迄四尺二寸口径二尺三寸。
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  嶺松庵観音堂は狭山南峰の枝峰の出鼻に在り。圓乗院の持にして本尊如意輪大士は恵心僧都の作。狭山第十七番の霊場也、内に村里の墓あり、碑あり、詠歌『ききしける嶺の庵を尋來て嬉敷もきく法のまつ風』を刻む。外に左図の如き古碑存す。

古碑図

 以上の外に十五本の折れたるあり。左の如し。



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右は天保年間に農民眞野三右衛門宅地続きの前山を開拓せる時掘り出したる処に立置きたるものにて外に刀一本鋸一挺出でたるも盗まれてなし。

神祠 諏訪、八坪
小地名 南ヶ谷戸、原ケ谷戸、両ケ谷戸、後ケ谷戸、上ケ谷戸、砂窪、梅木谷、長尾根、鎌土、廻り田谷、清戸街道、前野
氏族 眞野、竹内、榎本、関田、粕谷、二見、芝村、町田、柚木、大山、荒川、西田、木村、福野

多摩郡狭山村之内宅部
          戸数十二軒

屯倉跡
除地中畑四畝六歩杉本氏の宅地続きにありしが、不用地なるに依り、元緑度上知して高入を願ひ収税す。往古此地にも屯倉(みやけ)ありし故に屯倉部(みやけべ)と云ひしが何時の頃よりか宅部と呼ぶに至る。旧地頭逸見氏の郷藏敷なりと云へど然らず。逸見氏上知の後、延宝五年(1677)再検地の砌、設樂孫兵衛蔵屋敷として是を除く。

宝珠山西樂庵地藏堂は往時宅部山三光院の末寺にして西樂寺地蔵院と号し本尊延命地藏尊は長五尺
脇士不動尊は長四尺なりしが、故ありて幡ケ谷村荘嚴寺へ移し廃寺となりし跡に一宇を建て西樂庵地藏堂と呼ぶ。杉本家の持にて代々の墓あり。什寶に弘法大師御筆の不動尊一軸ありて、文政六未年(1823)三月五日火災の砌も無難なりしを旦那杉本定賢経師に命じ、板厨子を補修し張り置き邸宅内に安置せし処、弘化三丙午年(1846)二月二日の火災にて焼失したり。本尊の地藏菩薩も文政六年(1823)度焼失後神力房光保彫刻の地藏尊を安置す。長二尺除の立像也。地内に廻り六尺五寸のコクの木あり。

古碑



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此碑文化十酉年(1813)十月字西楽寺の畑より出し井の端に置、釣瓶の台に用ゐありしが、崇りありしため常覚院俊光法印を招請し熊野神として祭る。西樂庵は狭山六地藏第二番なり。

詠歌 無理ならぬ誓を立てて乗る舟はみだの浄土へつくぞ嬉しき 林志

狭山八景之内峯の焚火

  五月晴狭山が峯にともす火は雲の絶え間の星かとそみる 修理太天顯季

按ずるに狭山峯は此のあたりなるべし。往昔は猪や鹿多く出て耕作物を喰ひ荒し土民難儀しそれらを威すため峯にて夜毎火を焚きけるよし云ひ伝ふ。五月暗の頃恰も星なども出でしかと駭(おどろ)きみしこころなるべし。

三島神社は杉本勘兵衛の宅地にあり。租先の霊を花持明神と祭り三島神社へ相殿すと伝ふ。神木相生榎は廻り各一丈二尺余、根元直経二間あり。銘木なり。

諏訪神社は中田坂下にあり。杉本文右衛門の持地にあり。租先鎌にて蛇の頭を切りたたられしに依り諏訪明神を勧請し毎年七月廿八日醴を醸し近隣の老若男女に振舞ひて祭礼す。地内に蘭の大木あり。廻り一丈余神木と称す。これにからまりたる廻り三尺余の藤は今切られてなし。

吾庵稻荷は字吾奄ヶ谷戸にあり。昔道金寺の鎮守なりといひ伝ふ。道金寺の本尊は吾庵の薬師如來なり。日暮里村へ移し廃寺となる。今にこの地を道金寺場といふ。然し俗称誤りて道金嶋と呼べり。神木の欅にからめる廻り三尺二寸の藤あり、明治十四年(1881)欅は六両にて売る。
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狭山八景之内狭山が池
  春ふかみ狭山が池のねぬなはのくるしけもなく啼く蛙かな 仲 實
  みくりくる狭山が池の便りにしかげはひかれぬ青柳の糸  隆 佑
  あやめぐさ侠山が池の永き根をこれもみくりの慣ひにぞ引く 兼 昌

右の古歌にいづる狭山が池は此地にあり。字古澤を現今小澤の字を誤り用ゆ。周囲の旧反別七町歩の御料林なりしが元文度(1736~1741)割地と成り開発山と称す。往古は松柏密生し池の堤の長さ廿五間余高さ一丈幅六間馬踏三間余奥行五十間余あるべし。その余池敷の囲り凡三千坪余ありしが方今改正に付水なき所は民有地に属す。此池水をもて宅部、後ヶ谷、廻り田村までの田用水とす。池の三方高山にして艮の一方深田の溝を流れて耕地に出で宅部川へ流れ入る。此池今にして蓴菜生じ蛙多く棲む。

狭山池詩

瀧興沖某1璽々連㌦温山戴一盤尋池琳妬レ山川打・八"椙
幾陣寒雁山洛二山田一林外婦擶}顕轟荊春轟剛

武野八景之内宅部寒雁

宅部ハ狭山自げ半以東分昌裂南北"中間東西可昌孚里一属卿噛後谷清脈廻田三村制璽名也輿地地臼稻
梅仙含星峯
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田而三冬氷雰中鴻雁歳棲集飛去飛還往往整"陣鴨聲相和書夜不γ絶幽趣有y余云南北有昌民家舶南嶺小麓平望局屋後於林叢間"北隔鴫噌田畔小河一直侮扁崔山塁高低不ゾ齊宅辺多種レ柿秋冬之交實熟則濃淡如二書緑一頗爲昌奇.観"千載集顯季歌曰佐津幾郡美差也麻峨彌禅爾登恐須比波玖毛乃太惑末廼保之加土曾民留当時所ド斥不ピ知丑何峯一此境今似レ悩「騨共意鯛尖自二西偏南入嵩漢間藪百歩有二古池"生鴫薫肇四辺山中盛生哨訟露薇蕨鄭人称日"小澤池藤忠休山間十里田田上三冬雁棲宿一何多年々来似"慣

唐芋(薩摩芋)試作書上

一、春中唐芋種被下置栢候彌々生候哉ツル出候哉の訳書付指上候様御廻状被仰付候処当村之儀はへ可申様には相見へ申候得共蔓はいまだ出不申候 以上
    享保十八年(1733)丑四月二十二日
            武州多摩郡後ケ谷村 名主 勘左衛門
                      組頭 八郎右衛門
                      同  武右衛門
  上坂安左衛門様御役所
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右は甘藷が武蔵野へ裁培し始められし折のもの也。

小地名 杉本、林、川嶋、西樂寺、柳谷、鳶谷、中田、下田、吾庵ケ谷戸、金山、内田、石塔前
氏族  杉本、竹内

多摩郡山口領狭山村之内宅部郷内堀

 此地旧後ヶ谷村の枝郷にして慶長二年丁酉(1597)三月溝口佐左衛門の采地たり。元文三戌午(1738)六月政五郎代上地す。此時郷名を以て宅部村と改称す。維新の際元の如く後ヶ谷村に合し狭山村と改称す。
戸数 二十八軒

阿弥陀堂 本尊阿彌陀如來は長一尺余の立像。村里の墓所あり。往昔は古澤の入口西山に在りしを正徳年間(1711~1716)今の処へ引移す。


当地に両口の塘堰あり、産後乳不足の女人此の塘に来り水を掬し呑むに験あり。願成就の時は御礼として絵馬或は五色糸又は五色の紙を献ず。何神の在すか里人知らず。愚按するに五龍王ならむか。

御料神社 字内堀にあり。鎌倉権五郎景政の霊を祭る。古時は御霊明神と唱へしが延宝五年(1677)再検地の砌御料所の鎮座なるに依て縣令設楽孫兵衛差図にて改む。維新の際元の如く御霊明神と更称、中田六畝廿歩の除地は奉還し現今社地壱反壱畝廿歩官有地となる。

別當常覚院は復飾して内堀宅美と改め神官となる。祭典毎年六月十五日。
末社弁財天は日杵嶋神社に天王は八坂と改称す。


愛宕神社

旧別当は鎌倉権五郎景政の臣寺嶋小重郎、霊光山東光院と称し聖護院宮御末となり、その倅東光坊の後常覚院長慶之を嗣ぎ、以後世々その職にあり。


神 祠
瘡守稲荷 峯稲荷 大神宮 大六天 失物稲荷

小地名 古澤、川上、ハツキダ、膳棚、竹淵、御料前、日向尾根、杉山入、入山、◎拒山、寺嶋、源氏、小十郎窪、椚田
古 塚 行人塚、東光院塚、大塚、庚申塚、御判塚、塚の腰、送神塚、霊光塚
氏 族 内堀、榎本、中村、杉本、関下、山中、肥治沼
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多麻郡山口領宅部郷清水村

高 三百八拾石一斗参升五合  戸数六十軒
内 三百二十六石       淺井武次郎上知
  五石           氷川神社領上池
  三石           三光院領上知
  四十六石一斗参升五合   持添新田

 此地は狭山が池の清水流れゆく地に当るにや、古時よりかくは号す。天正十九年(1591)辛卯五月三日、淺井五郎左衛門が采地たり。入間郡徳次郎村、鯨井村、共高五百石之処元禄七甲戌年(1694)下田村、寺方村、中和田村を拝領し鯨井村、徳次郎村を上知して村替となる。

 古は宅部清水二ヶ村なるべし。地頭所年貢割付之表に近年迄宅部清水両村可納割付之事と記しあり。

 清水山成就院は新義真言宗中本寺、上石神井村亀頂山三寶寺の門徒也。本尊阿彌陀如來。開基は地頭淺井九郎左衛門利政にして代々の菩提所と称す。開山珂遮梨法印は延宝四丙辰(1676)五月十一日入寂し、中興栄智法印は享保十七年(1732)子十一月十一日寂す。上田一反弐畝歩及び境内壱町歩を賜はる。淺井家は元は橘姓にて四代目淺井七平次元久の代改めて藤原姓となる。本國は近江にして紋所輪之内枯葉笹なり。地内浅井家の墓あり。
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贈淺岳院雪窓松意居士   元和八(1622)年十二月十四日
義嶽宗節居士       寛永六巳(1629)十二月六日
清光院殿□誉意寶居士   寛文元丑年(1661)二月廿一日
妙法玉泉院元久日長居士  寛文三卯(1663)年九月二十二日 淺井七平元久
心光院殿秋月妙容大姉   貞享三丙寅(1686)八月十二日
霜樹院殿寳岩源松居士   元禄五申年(1692)十一月六日
晴雲院殿月空了心居士   元禄十丁丑年(1697)十月十六日
安住院殿善誉元忠法山居士 元禄十五年(1702)午正月六日
豊逗院貴成轡遁察元政居士 享保三戌年(1718)正月六日
安立院殿農界酸簸元重居士 享保五年(1720)子三月廿三日
圓乗院殿法誉開根元茂居士 寛政元酉年(1789)八月十日 浅井吉十郎元茂
善立院殿大誉覚田元武居士 寛政二戌年(1790)十二月二十二日 浅井小右衛門元武
法閤院殿性誉元知居士   文化元子(1804)年十月十日 浅井小右衛門元知  
永勝院殿覚誉正因大姉   寛永三丙戌(1626)八月二十六日
霊雲院殿鑑室妙光大姉   寛永七庚寅(1630)年六月二十四日
紹隆院殿妙叡日遮大姉   延宝二甲寅(1674)十月十七日

 金剛庵大日堂は狭山岑(しん)にあり。本尊金剛界石佛極彩色の大日如来は長一尺五寸。本堂二間四面、飛騨國甚五郎の作也。大風の時吹き歪めしが日ならずして又元の如くになりしと云ふ。五十嵐一家の墓所あり。毎年十一月二十五日一族集まり梵天祭りあり。堂は維新の際廃止す。地内に古碑あり



五十嵐伝兵衛廟碑
省略

 観音堂は橋場にあり。草創開基不詳。本尊正観世音菩薩は行基の作にして長一尺五寸の立像。狭山十五番の霊場、杉崎氏の持也。

詠歌 月影も清くうつれる水の面ふかきちかいをくみてしるらむ

 下の大日堂は原口にあり。本尊石佛は胎蔵界の大日如来にして惣丈五尺。前記大日堂の金剛界に封し是は胎蔵界の大日と称す。銘に正徳二年(1712)壬辰三月大清山本山修験持寶院とあり。境内村民及び大久保家の墓あり。

大久保狭南先生墓陰記



 右の碑惣丈け三尺八寸、碑棹高三尺巾一尺七寸五分、字数二百八十三。先生は持宝院十二世柳光の舎弟也。



持寶院

 本山修験大聖山持寶院は、森御殿聖護院宮御末、小田原玉龍坊配下府中門前坊霞下、多摩郡中取締役也。先祖大久保掃部は武家にして江戸之人也。復飾して本山修験となる。元祖宗山は金剛院と号し、二代柳覚は持宝院と号し、三世慶岳、四世良山、六世英岳、七世宗岳、八世俊海、九世源海、十世良源、十一世慶伝(中興開基也)、十二世柳光、十三世柳観、十四世柳證、十五世有慶、十六世陸通、十七世恵俊、十八世康栄に至る。始め大清山と号し、後大聖山と改称せり。

 七世の宗岳は俗名彦五郎、江戸の人也。尚、祈願檀家には旗本衆多く、上田(三千石)三好(二千五百石)三枝氏等帰依せり。三枝氏は六千石にして久米村の先の地頭なり。護摩壇一面の奉納の銘に
   施主 三枝摂津守守相 同 奥方
       同 宗四郎守行 同 奥方
 右の外家中齋藤杢之丞美政、小尾四郎左衛門賢一、友須賀十郎右衛門宗鋪外九十六名
 護摩檀施主   三好唯次郎長榮
 光壽院
 燈明施主 家中菊油門大夫武治外二十六名
 右施主 御武運長久祈所
    正徳三癸巳(1713)三月 法印慶伝

 尚天和三年(1683)亥八月十三日府中門善坊より持宝院宛の古書存す。
     正徳三癸巳年三月

 元緑十四年(1701)七月朔日平田氏甲之進奉納桐木太刀
 略

 熊野神祠は清水山成就院境内にあり。毎年九月十九日を祭典とす。
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神 祠 八幡社 神明
小地名 元木、的場、屋数、楯野
塚   金剛塚、庚申塚
氏族  五十嵐、野口、宮倉、日橋、杉崎、池谷、野澤、緑川、原

多摩郡山口領宅部郷清水村之内上宅部

 此地はかつては別村なりし哉、地頭割付之表に宅部村清水村両村割付之事と記しあり。旧来清水村に戸長ありし故清水村云々となりしもの乎。天正以来は清水村の内となれり。高反別は同村に属す。 戸数廿七軒。

氷川神社は

祭神素盞鳴尊 大巳貴尊 稲田姫命の相殿也。毎年六月十五日を祭典とし正神供小麦の牡丹餅に麦焦をまぶしたるを供す。圭田五石の地を賜はる。勧請年紀不詳。古時は宅部、清水、内堀、日向、境、廻田、後ヶ谷戸七村の惣鎮守なりしと云ひ伝ふ。

別当は聖護院宮御末小田原玉龍坊配下、府中門善坊霞下なる照林山神宮寺圓達院にして昔宮倉権之丞と云ふ人本山修験となり、三覚院と號し其子龍蔵院圓達坊より代々圓達院と號し、維新の際復飾して、清水大学と改称神官となり、後に安清と改名す。

棟札

右二枚棟札の内一枚に各姓名の下に尉の文字あり。尉は諸大夫の任なければ用ゐられず。然るに猥に用ゐしは其風乎。元禄十四年(1701)の棟札にも石井杢右衛門尉とあり。


以上三枚 其他弘化三丙午年(1846)二月二日、別當所類焼の砌焼失す。神供の食器高麗狗は悉く蝕まれながら
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尚存す。


 本地佛座像の正観音長一尺五寸、後座共三尺三寸、厨子入なり。但し尊体は虫喰ひとなり、蓮華と後光は修飾を加へられたる如し。蓮華座の内に神躯三枚あり。左図の如し。


 尚あたりには鰐口錦の戸張其他神器散乱せり。元禄度小町九郎兵衛、池谷彦右衛門奉納の鉄燈籠は現存す。石坂は延享四年(1747)丁卯
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三月建立、三十二段あり。その東側十間程の所に、廻り各一丈四尺余の大杉二本ありしが天保五年(1834)別当達道の代伐る。

朱印

 右は家康公御朱印折紙也。御鼻紙御朱印と称す。二代目台徳院殿のには多麻郡とあり、貞享二年(1685)六月十一日のには、多磨郡とあり、以後は維新まで然か用ゐらる。尚大猷院殿寛永十三年(1636)十一月九日迄三通は日の下御朱印なりしが以下十一通は追々と上りて年號の上に押されたり。


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宅部山三光院眞福寺は御室御所の直末なりしが、寛永十癸酉年(1633)三月十九日離末して、新義真言宗杣保郷青梅村青梅山金剛寺無量壽院の客末となる。草創開基未詳。開山快元法印は延文二年(1357)丁酉六日朔日入寂す。是より十二世圓長法印まで不明なり。本寺書留帳に中興開山法印圓長と記しあり。法流開基は元禄十二年(1699)卯十二月十一日法印寂如なり。本尊は座像の阿彌陀如來、長二尺五寸、雲慶の作。新四國第四十一番伊豫國稻荷宮の移なり。地

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内千手観音は慈眼大師の作、長八寸。狭山第十六番の霊場たり。

天正十九年(1591)辛卯十一月家康公より寺領三石の地並に境内壱萬坪不入之御朱印を賜はりたり。山號往古宅部山なりしが安永十辛丑年(1781)二月輪王山と更称す。檀家百五十戸、旧門徒七ヶ寺。光明院、大泉寺、西樂寺、道金寺、泉濟寺、金剛庵、松林庵等之なり。金剛庵は大日堂にして泉濟寺は泉宗坊を云ふなり。

朱印


 家康公の折紙也。中興八世宥秀法印戴く。
 二代台徳院殿元和二年(1616)三月十七日多麻郡とあり、四代嚴有院殿の貞享二年(1685)六月十一日に多磨郡とあり四代迄年号の脇に御判あり。天保十年(1839)愼徳殿御代に至り年号の上にあり。
 恭しく惟るに年号は則天子の御諱也。年号の上に判を据るは驕也、謙なきに似たり。徳川家もここに到つて終る。愼むべき也。


 地内に在りし金比羅大権現は順孝比丘の勧請にて、文化十癸酉(1813)三月廿四日天神山へ移し石段八十階あり。鳥居は文化十一甲戌(1814)九月造立す。維新の際金毘羅神王と改称し鳥居を除く。本尊佛師は芝口三丁目主馬と呼ぶ者にして地蔵も同人の作也。

 梵鐘は永禄三庚申(1560)三月建立なるを正徳二壬辰年(1712)四月鋳替安永九年(1780)九月古鐘は峯薬師へ売渡し現存のものは新鋳なり。惣高龍頭迄四尺六寸口径三尺五寸、本渡◎鈷丹二分差正味百三十貫目、豊後打錫一割三分、差東都神田住西村和泉守政時に命じ鋳造せしむ。

銘曰

石神
石神は字石原山下の柜(きょ)の木の根元にあり。原五郎右衛門の持地也。近郷の人々虫歯其外病あればお石殿と唱へ所る時は其病癒る也。鐵の鳥居を献ず。



阿弥陀堂
阿彌陀堂(俗に中堂)は上下(かみしも)に堂あり、その中央なる故也。旧道金寺の跡を此地に移す。石塔前といふ字は道金寺の塔前なり。本尊阿彌陀如來にして原氏の墓所あり。寛政四子年(1792)二月八日に一度焼失したるを同年十一月十二日再建せるものなり。境内銀杏の大木ありしが伐りて堂宇修繕材料に充つ。

塔頭堂
塔頭堂は本尊阿彌陀如來也。延享度(1744~1748)三光院の二重塔を移せしと云ふ。木下氏の墓所あり。地内枝垂桜あり、廻り四尺群。栃の木廻り八尺余ありしが伐りて修繕材料とす。

牡丹
森田彦三郎宅地にあり。廻り六寸五分、三幹生じ高さ四尺花四十二輪、花径八寸五分、白色にして縁赤を帯ぶ。狭山第一の花王也。

神 祠 山王、荒神、稻荷、山神
小地名 山王谷、荒神谷、山下、峰、中田、峰窪、石塔前、塔頭前、道金寺場
氏族 木下、原、渡辺、森田、萩原、粕谷、宮倉、清水

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多摩郡山口領奈良橋郷高木村

  当地の名の起りは往昔鎭守尉殿権現の社地に松杉の大木繁茂し、南は玉川府中辺より西は青梅五日市東は田無保谷あたりより望見し得られし故自ら出でしものなりといふ。現在神木と称する欅の枯れし幹のみ存せり。其高さ二間程、めぐり八尺あり。

 天正十九年(1591)五月頃より酒井郷藏同極之助兄弟の采地たりしが、郷蔵殿故ありて上知せられその後在来御料とす。

 高 百八拾八石四斗八升六合 戸数 五十六軒
 内 百廿三石四斗八升六合  戸数 二十九軒 在来御料
   六十五石            戸数 二十七軒 酒井才治郎上知
   内 二十一石       奈良橋分


尉殿神社
 尉殿神社は村の惣鎮守也。祭紳不詳。伝云ふには手力雄命なりと。境内五畝廿歩除地となりしが維新の際奉遷す。祭典は毎歳九月十九日獅子舞の神事を古例とす。別當妙樂寺なりしが維新以來遠山左衛門尉家□鐵右衛門復飾の上宮島岩保と改称して神官となる。明治十丁丑年(1877)四月十日傍に塩竃神社を勧請す。

妙楽寺
高木山妙楽寺は新義真言宗上石紳井村亀頂山三寶寺の末派にして、本尊不動明王長一尺許の立像並に両童子及び地藏菩薩の立像長一尺二寸は方今地藏堂へ合併す。境内壱反弐畝歩の除地は奉還す。
地内銀杏の老木廻り一丈除なるありしが明治九年(1876)伐り、他の小なるもの廻り八尺程のもの尚存せり。

蟹峰堂 本尊薬師如來は長五寸許り。狭山薬師三十五番にして、日光月光並に十二神あり。堂の名の起りは昔ここに蟹の形に刈込みたる柘植の木ありしより名付けたりと。地中尾崎氏の墓あり。
詠歌 いやしきも高きも同じ薬王樹如來の願にへだてなければ

新堂 本尊は長五寸程の地蔵尊の座像也。地中尾崎氏の墓所あり。
阿彌陀堂 本尊は三尊の彌陀如來の座像長一尺及び勢至観音の立像あり。地内に宮鍋氏一家の墓あり。地中に義融居士辞世碑あり。左の歌見ゆ。

阿字を出て佛法世界の代に生れ古郷へ返る我ぞ嬉しき
詠歌 ありがたや高木にのぼる月かげはさいの河原に光りかがやく 林志

稻荷二社 内一社は旧地頭酒井郷藏の勧請と傳ふ。
小地名 本村、砂、水窪、稲荷林、宮前、ケカチ川
塚   蛇塚、丸山、塚下
氏族  尾崎、宮鍋、和地、鈴木、関田、渡辺
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多摩郡出口領奈良橋郷奈良橋村

 天正十九辛卯(1591)年五月頃より石川太郎右衛門采地たり。同人関ケ原陣の時討死せるに付その子孫に相模國大住郡之内打間木村にて二百石加増されしが、享保十八丑年(1733)故ありて上知となり以来御料とす。
 
 高 二百三拾二石九斗二升九合三勺 戸数 五十九軒

八幡宮

 村里の惣鎭守なれど勧請年紀不詳。祭神は誉田和氣尊、応神天皇也。祭典毎歳八月十五日。別当本山修験八幡山覚寳院は聖護院旧宮末小田原玉龍坊配下府中門善坊霞下也。境内六反歩及び山王分六反歩除地なりしが雑新の際奉還す。元祖諸宝院より十一世承盛の世押本肇と改名復飾して神官となる。同氏地内に廻り四尺余の枳棋(けんぽなし)の木あり。尚八幡の社木松廻り八尺。注連張杉二本廻り各一丈。

八幡宮棟札



天王山雲性寺観音院

 天王山雲性寺観音院は以前は本尊不動明王なりしが後三尊阿彌陀如来を安置す。長二尺許り。脇土勢至観音二体は立像にて長一尺余。中藤村眞福寺の支院にして後の山に天王宮ある故天王山と号す。又観音堂あるため院を然か名付く。法流開基法印伝榮は享保三戌年(1718)五月五日寂す。
 地内観音堂本尊は十一面観世者にして狭山第十八番の霊崛(れいくつ)たり。除地二反五畝歩は維新の際奉還す。
 門前に弁才天の小祠ありしが維新の際天王の社と共に諏訪山に引移す。旧地頭石川大郎右衛門代々の墓碑七本各高二尺位也。

唯能院殿繹常彌居土 元祖石川太郎右衛門 慶長五年(1600)子九月十五日
延長院殿釈道空居土 二代目石川長左衛門忠吉 元和九癸亥(1623)五月二十五日
常樂院殿釈氏道円居士(関ヶ原討死)三代日太郎右衛門忠重 承徳三甲午五月廿日
得行院殿釈正道居士 四代目太郎右衛門忠英 寛永七庚寅(1630)六月十五日

 以上四代の法名は一向宗の戒名にして石塔なし。惟ふに淺草門跡の寺中徳本寺と云假菩提寺あり、此処にて附けたる法名ならん。同寺の石塔の脇に雲性寺へ分骨と記したり。

專清院殿秀邦了泰居士 五代目石川与兵衛矩重 享保十一年(1726)六月十三日
壽光院殿榮徳元心大姉 石川太郎右衛門忠重母 延宝六戊午(1678)正月二十三日
壽心院殿教散実悟居土 石川太郎右衛門寿員 元文五年申(1740)二月二十四日
心教院殿妙悟実壽大姉 右同人妻 寛延三年(1750)午十月二十九日
了心院殿月皎宗智居士 延宝三年卯(1675)三月二十八日
常光院殿□林妙宅大姉 慶安二乙丑(1649)年七月十五日
円寿院殿武道了榮居土 七代目半之丞矩仲後矩純 安永六酉(1777)九月二十七日
常泉院殿法輪妙喜大姉 石川忠英室 享保元年(1716)七月十七日
信照院殿眞相智海大姉 石川矩仲室 宝暦二壬申(1752)六月二日
以上皆施主石川安治郎と記しあり。

本山修験愛宕山大徳院は元祖東覚院より甘三世教順の代、金功に依り準年行事となる。維新後復飾して押本愛丸と改称、神官となり愛宕神社を守護せる故愛宕山とは号せしなり。境内の杉廻り一丈五寸明治十年(1877)是を伐る。
愛宕山大徳院墓陰碑
省略

奈良橋村高橋七郎兵衛之墓碑
省略

霹靂体稻荷は岸氏邸内にあり。神体を霹靂体と称す。図左の如し。
   惣丈三尺五寸許り五段に折れ二段紛失す



地中槐(えんじゅ)の大木ありしが伐り現存するはひこばえにて廻り二尺余、銀杏廻り七尺三寸ありしが明治八年(1875)伐る。

日月神社 旧社地九畝歩。天照大神月夜見尊を祭る。
神祠 山神、愛宕、日枝、八坂、諏訪
小地名 菖蒲ヶ池、鍛冶ヶ谷、新ヶ谷戸、大木ヶ谷戸、葭ヶ谷戸
塚 庚申塚、織部塚、東覚院塚
氏族 岸、鎌田、押本、石川、高橋、中澤、粕谷、栗原、根岸、田村、清水、塩野、氏江、西川
   和地、石井、尾崎、岩崎


多摩郡山口領奈良橋郷蔵敷村

 当村は石川太郎右衛門采地にして奈良橋村之内藏敷分と称し来りしが維新の際韮山縣より村号を受け独立せる一村と成る。享保十八丑(1733)年上知以後在来御料と称す。旧地頭石川氏の郷藏ありし故村号となりぬ。

 高 二百拾五石七斗四升六合七勺 戸数 五十九軒

 熊野神社は村長内野氏の鬼門除に建立せしと。現在は村里の鎮守とす。同氏分家十五軒ありて此処より東西へ七軒宛住居す。神木杉の廻り一丈五寸、坂の半にあり。祭典毎年九月十九日。石の常夜灯高さ一丈五尺許り。台石に左の銘あり。

 郷曲欲詣匂伊勢神庸 行路之資糧各出銭為準備数年而其事不果也於是挙所積之資造一基燈台奉昌城陛祠前以充賽神意云明治三年歳次庚午春社日
                      里長 内野敷隆 謹誌

 御嶽神社の地中樅(もみ)の大木廻り一丈七尺余。
 弁才天女の祠は内野氏宅の乾にあり。昔同氏の創建なりしが天保十四年(1843)再建す。維新の際嚴島大明神と改称す。麓に同氏一家の墓あり。(引墓なり)

古碑


 内野杢左衛門之墓碑
省略
 文斉俊盛居士之墓碑
省略

 太子堂の本尊銅佛は束帯の聖徳太子御長一尺五寸。空殿は極彩色にして嘉永三年(1850)の再建にして脇士は立像の阿彌陀如来也。

 地藏堂の本尊は立像の地藏尊にて長二尺許り。堂後に彼岸櫻あり、廻り八尺五寸。百日紅廻り四尺。
 並木氏の墓所に古碑あり。永の文字の下磨滅して不明。按ずるに永享十戊午(1438)か永禄十一戊午(1568)か。長三尺五寸巾八寸、圖の如し。


 伴凰翁墓陰記
省略
 狭山翁略記

 神祠 熊野、御嶽、山王
 小地名 鼠澤、國領、大見山、御用地、仙間谷、姥がふところ、荒井戸前
 氏族 内野、鈴木、小島、並木、伊藤、内堀、窪田、木村、石原、石井、宮崎、島田


多摩郡山口領上奈良橋郷井窪庄芋窪村

 此地は天正十九年辛卯(1591)五月の頃地頭所となり一名更に知れず、酒井氏代々之を知る。伝へ云一名は酒井郷蔵采地なりしが寛永度(1624~1644)上知せりと。

高 三百拾四石
  内二百九拾五石七斗七升五合 在來御料 戸数 八十二軒
   百三十五石     酒井極之助上地 戸数 七十五軒

豊鹿島神社

豊鹿島神社は村里の惣鎮守にして勧請年紀不詳、祭紳武御加豆智命にして祠掌兼教導職権少講義石井以豆美世々日是を守護せり。祭典毎歳九月十五日、獅子舞の神事古例なり。
 慶安二年(1649)徳川家三代目将軍家光公より朱印を賜はりしが維新之際奉還す。同社東之方に在る石燈籠高五尺許。共銘曰正面鹿島太神宮寶前二世安楽所年號正保四丁亥(1647)三月吉日。脇に御日待供養六郎左衛門、前左衛門、小兵衛三名あり。

 同西之方石燈龍の銘に曰、鹿島太神宝前武州多摩郡上奈良橋郷井窪庄元禄十五年(1702)壬午十月吉日。正面の下に中村吉左衛門、比留間前左衛門、石井佐衛門、中村文右衛門、東の方に石井曽右衛門、木下久七郎、比留間長左衛門、西の脇に加次賀彌兵衛、加間田次右衛門、関口庄兵衛等十名連署也。

神寶

 錦の几帳は東照君御奉納也。
 寶劔は龍王丸と號す。
 人丸の絵像は尾張大納言の自筆なり。
 境内に雨降櫻の名木ありしが枯れたり。
 注蓮張杉二本は各廻り一丈許り洞木にして蛇の棲み場たりしが二本とも伐る。神木と称する欅廻り二丈三尺根の敷張凡十間四方神代木なり。狭山のうち右の上に出る大木なし。
  家光公御朱印写
棟札
文政元年十月三日
奉建立鹿島大明神社壇一宇 本旦那 源 憲光

天文三年
奉建立鹿島大明神社一宇 大施主下総住 工藤入道


撞鐘銘
建武三年七月廿日
奉納撞鐘一口 澤井三郎源光義妻敬白

要石

要石は楯野にあり。高二尺許、廻り六尺五寸。
里語に此奇石の傍を穿ちて子供の有無を知ると。虫一匹を得れば一子、二匹なれば二子を得、死したるを得ば子死すと云う。
要石の傍に樅(もみ)双生す。一本は廻り一丈一尺、他は七尺余あり。此の付近に昔庵室ありしと云へど今はその跡を知らず。

小地名に陣屋、木戸と云あり、旧地頭酒井氏邸の跡なりしとか。又苧流しと云へる処は昔麻を作り洒したる処にして、宮田といふ地は鹿島神社の御供免の旧地なりとか。末社子神にもかつてありしとみえ耕地に子神免といふ小地名残れり。

伊豆殿渠は新堀ともいふ。当村地先より堀込方面を経て新倉郡宗岡村に到り、松平伊豆守領分の田方用水となる。明暦年間玉川上水掘割の時伊豆守殿御手伝の功に依り分れを戴けるなりと云ふ。

林堂

林堂は本尊如意輪観世音行基作の座像一尺余。狭山第十九番の霊場也。地中古碑あり。左図の如し。


法界塚

法界塚は中藤村の地内也。法界にあらず法替なり。大道を堺とし東は法界坊と云う。尾又一家の墓あり。尾又七郎左衛門三男文蔵瓢月と号し墓碑側面に左の辞世の句あり。

涼しさや富士を真向に松の声

野口養益翁之墓碑
省略
養益氏の辞世

神 祠

子神、石神、滝沢、山王、弁天、稲荷、大六天、羽黒、神明、熊野、愛宕

小地名
木戸、山浦、楯野、瀧澤、宮田、陣屋、精進揚、西谷、鹿島谷、六本松
氏族
河鍋、石井、高杉、荒畑、尾又、岩田、中村、栗原、橋本、内野、野口、小橋、藤田、関口、星野、木村、比留間、木浦、三鴨、三鎌、春日、乙幡、進藤、池田、西島、峰岸、三田、村田


多摩郡山口領芋窪村之内石川

 此地は高反別戸数とも芋久保村に包含せらる。宅部川の水源は字槌が窪に発し新ケ谷戸内、宅部、清水、廻り田、野口の各村を経て入間郡久米村に至り柳瀬川に合流す。

 昔当地は人家を去る事十丁四方もあり。沼池の周囲には松柏生ひ茂り森々とせるため水自ら満ちて大海の如く人跡絶えし幽谷をなし槌頭(つちんど)と云大蛇生息し、峰谷には猿鹿狐狸栖息し從つて谷水は旱魅の折も涸るなかりしが、元禄年間(1688~1703)御料林払下げに相成るにつき伐木するも故障無きや否やを訊したる処、差支なき旨答上せるため、立木を伐り払ひそのあとを農人持とせるがために、池水自ら減じ大蛇なども何処へか姿をかくしたりと云ひ伝ふ。槌の窪と呼びしは槌の形をしたる頭の蛇棲める故なりと。

石澤山蓮華寺愛染院

石澤山蓮華寺愛染院は真義真言宗中藤村真福寺の末也。本尊不動明王の座像は惣長四尺余本体一尺八寸許り両童子各一尺八寸程にして開基草創未詳。中興開祖承雲法印は寛永八辛未年四月十二日入寂す。法流開基は寛保三癸亥年十一月二日法印賢真の代に真福寺法印宥範より印可を受く。尚外に不動尊二体を安置す。位牌堂の本尊は座像の阿彌陀如來長一尺五寸許りあり。寛永六巳年十一月検地の節、字石川の名のもとに畑四畝廿四歩寺屋敷共蓮華坊へ下附せられ一切凡そ二町歩あり。檀家百廿五戸。

石澤山不動明玉略縁起

 武藏國多摩郡芋窪村石澤山蓮華寺不動明王並びに矜羯羅(こんがら)制咤迦(せいたか)の二童士は祐天大僧正の看経佛也。其の濫鵤を尋るに延暦二十三年吾祖弘法大師入唐して恵果阿闍梨を師として密教眞言の奥儀を伝受し大同元年に帰朝の折柄不動明王の尊像を持渡して西京高尾山神護國祚寺の護摩堂の本尊と成し玉ふ。爰に六十一代朱雀天皇の御宇平朝臣相馬小次郎將門東國に奮ひ発り、下総國相馬郡石井の郷に依り平親王と號せし頃、天朝の命を受け僧正寛朝密に不動明王を奉持し成田の里に馳下し調伏の護摩を
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修行したりし験あり、將門遂に敗亡せしが其後僧正不動明王の尊体を奉持し帰洛せんとせしに、大磐石の如く動き玉はず依而一宇を建立し明王を安置し奉る。現今の成田山の不動尊是也。

 然るに寛文年間(1661~1673)目黒祐天寺の開山たる祐天大僧正、沙彌の時は其性最も愚鈍にして學業の進難を嘆じ、嘗て此尊に帰依し参籠持念する事一百日、期満ちて後恵解人に勝れ遂に大徳の聖衲と成り浄土一家の法門明了し玉ふ。是皆大明王の威力なりと深く感嘆し玉ひ、斯の高恩を謝せんには成田の里迄は道程遠きを憂ひ不動の尊像を彫刻し六字の名号に天下和順日月清明の八字と御實名並花押を記し、明王の御腹中に安置し香花を供する事永年也。阿遮羅の内證は凡下の測量すべきに非ず不思議の因縁を結び玉ひ、当寺に来臨あらせられ永く諸人を度せんとて霊験最も多き中にも、智恵を開かせ女人産生の苦を救ひ信心堅固の儕(ともがら)は諸病立所に平癒し、念力強勢の仁に左右を離れず影の形に随ふ如く御守護し、悪魔を退け障礙怨敵(しょうがいおんてき)を払ひ家内安全子孫長久息災延命の福徳長壽を得せしめ玉ふ所の霊像なれば各恭敬禮拝を專一にすべし。

     天下和順
南無阿彌陀仏 砧天 判書
     日月清明

 明治十一年十一月 権訓導法師江口榮雲
 因に蓮花寺は新四国三十八番之霊場土佐国蹉跎山(さださん)の写しなり。

蓮花寺半鐘の銘
省略

同寺法印錠光和上之碑(門前にあり)
省略

蓮花寺薬師如來は狭山第三十七番の霊場也。
詠歌 石の澤わけ入る寺のちかひにや蓮の台にのぼるうれしさ 林志

慶性院
 慶性院は白部山医王寺と呼び中藤真福寺末也。本尊不動明王の座像は長一尺五寸許り御腹籠は弘法大師の御作長五寸。開山尊承法印は天文十六丁未年(1547)正月寂す。
 地内白山神社ある故白部山と號し薬師堂あるにつき医王寺と呼ぶ。
 寺僧圓鏡法師曰く、按するに当寺は往古鹿島谷に小堂ありしを地頭二給となりし故に知行所分れしため、薬師堂の地へ合併したるらしと。また慶性の二字は慶長と同意なれば是に依つて考ふれば慶長の頃此処へ引寺となりしなるべしと云へり。
 法流開祖は十五世鏡意法印にして天明元辛丑年(1781)六月十五日入寂す。開基より淳賢迄二十二世僧を経。前記圓鏡法印は姓を田口と云ひ下宅郡の産にして三光院比丘順孝の徒也。同師後の山中に水天の像を勧請す。

藥師堂は西の山上にあり。本尊白檀佛の立像は長一尺五寸春日の作なり。狭山薬師三十六番の霊場たり。
詠歌 石川の恵みも深き医王尊すくひ給へや四百四病を 林志

梵鐘
省略

薬師堂
薬師堂は字薬師峰にあり。厨子高二尺余、尊体立像一尺五寸、先年堂舎焼亡に付尊像は慶性院へ合併し跡は其儘となる。

清野氏俗称半左衛門の宅地内に稲荷の小祠あり。傍の菩提樹廻り四尺六寸、毎年実を結ぶ。

権大僧法印慈賢墓記

 師字圓鏡当国当郡宅部邑森田氏(田口の誤也)の産也 業成初住奈良橋村雲性寺後転住当院法﨟(ほうろう)五十有二世寿六十六而遷化焉(えん ここに)

 文久二壬戌(みずのえいぬ)正月九日 施主二十二世淳賢


住吉神社
住吉神社は当地の鎭守也。祭神底筒男命、中筒男命、表筒男命、素盞鳴尊等也。

  當地石川に鉦打ちと称する者十三軒有り、十徳を着し鉦を打て村々を托鉢し生活す。叉内職に竹の柄杓を作りて商ふ。水呑百姓同様にして村方百姓と交際せず。久米村長久寺の檀家にして同寺に於ては石川の末寺方と尊敬したりと。姓氏は金子と云ひし由なり。此由來を尋ぬるに昔悪逆の武将を剃髪せしめたりしがその子孫なる由、近年迄西谷に一二戸ありしが今絶えてなし。

  氏族 高杉、荒畑、清野、菅沼、石井、村野、山科、谷内、井上、渡辺、橋本、田中、尾又

p86


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龍華山眞福寺清浄光院は醍醐三寳院旧宮末寺なり。新義眞言宗中本寺にして田含檀林と構し狭山一郷の大寺也。本尊藥師瑠璃光如來は行基の作にして長一尺五寸。和銅三庚戌年行基の開基と云ひ傅ふ。

承久二年雷火起て伽監塔頭悉く焼亡す。其後衰微せしを以つて正応二戊子年龍性法印更に之を開いて中興の開山と成る。其後寛保寳暦の両度の火災に書類も同時に悉く焼亡せし由申し傅ふるのみなり。

住僧世代は龍性法印より現住中藤宥濟迄二十四世也。位牌堂の本尊は座像の延命地藏並に不働明王なり。境内二町四反五畝六歩也。支院に佛蔵院、清照寺、海蔵寺、密厳院、打越常光寺、常樂院、西勝院、圓乗寺、長久寺、清泰寺、二本木地福寺、観音寺、慶性院、蓮花寺、雲性寺、延命寺等あり。

外に維新の際廃寺となりし分に普源院、北野梅泉寺、同廣福寺、林村神照寺、小ケ谷戸大聖寺、永源寺、総源寺、徳藏院等の八ケ寺ありたり。本尊瑠璃光如來は狭山藥師第一番の霊場也。


詠歌今まではそとと思ひし瑠璃のつぼ藥の水はなかとうにある林志観昔堂は地内に在り。本尊正観世音並に百騰観者は弘法大師の作にして狭山観音第二十番の璽場也。詠歌経多羅尼たえせぬ法の出なれば松吹く風をきくも樂しき林志